フランスで第3の都市であるリヨン、リヨンはすでにローマの植民地時代には栄えていた町の一つでした。中世時代、フランス革命時、19世紀の発展と反乱、近代、現代のリヨンの歴史をさかのぼっていき、リヨンの街ができた歴史を案内します。
リヨンの歴史はリヨンを流れるローヌ河とソーヌ河に囲まれているという地理的な特徴と密接につながっています。
ローマの植民地時代のリヨン
すでに紀元前1万年前には、ギリシャ商人とケルトとの交易ルート上に人が住んだ跡が見られました。そして、紀元前2千年の青銅器時代に人々がこの地に定住しはじめました。
紀元前600年になると、ケルト系のガリア人がローヌ河とソーヌ河の合流点に集落をつくります。その集落のことをコンダット Condate といいました。紀元前2世紀になるとローマ商人の取引所が設けられました。紀元前43年、ローマ人に支配され、ローマの植民地ルグドゥヌム Lugdunum と名付けられ栄えていきました。
植民地はフルヴィエールの丘につくられました。公共広場、劇場、キュベレー Cybèle の神殿、オデオンという集合所や共同浴場などが建てられました。領地はクロワルッスからプレスキル地区まで広がっていきました。リヨンの街はローマ人がつくりあげた西洋交流の大規模で重要な地点となりました。
その後、定住していたキリスト教徒たちが迫害を受け、紀元177年には多くの殉教者をだしました。人々はフルヴィエールの丘を捨て、ローヌ河やソーヌ河の沿岸に移住しました。197年、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスによる住民の虐殺や街の破壊をおこない、ルグドゥヌムは長い停滞期をたどることになりました。よって、リヨンの近くのヴィエンヌ Vienne、南仏のアルル、トリーアが繁栄していくことになりました。
中世時代のリヨン
470年、リヨンの街はゲルマン民族ブルゴンドに侵略され、ルグドンと名前を変えました。しかし、街は繁栄までには至りませんでした。
1079年にリヨンの大司教がガリア地方の首座司教となり、教皇がエネ Ainay の新しい僧院を聖別しました。聖別とは永久に神に仕えるため奉献されること。ローマ教会は橋や教会などの建設をはじめます。ようやくリヨンの街は繁栄の道を進むことになりました。
大司教たちはやがて伯爵領主になっていきました。商業は再び活発となり、食品や織物にかかわる職人たちが集まってきて、手工業の飛躍的な発展をもたらしました。教会と商工業との対立が、新興ブルジョワジーと呼ばれる商人や、金融業者、職人という中産階級の反発を呼びました。彼らはしだいに自治権獲得へと動き出しました。その後、1240年に自治体が誕生し、1271年にはフランス王国の保護下に置かれました。リヨンは「進め、進め、メロールのライオン」というスローガンと紋章を誕生させました。
その後、1307年にリヨンはフランス王国に併合されました。この時期から絹織物の交易の一大中心地として発展していきました。
繁栄のルネサンス期のリヨン
その後もリヨンは発展をつづけています。15〜16世紀のルネサンス期には、リヨンの勢いはほかと比べるものがないほどとなりました。
15世紀はじめ、内乱により国を追われたイタリア人たちが絹織物をもたらし、リヨン経済の主流を占めるようになりました。主に、リヨンからも距離的にも近いフィレンツェ、ミラノ、ジェノヴァといった北イタリア人が多く移住してきました。北イタリア人たちはリヨン市民との結婚などを通じて市民権を取得したり、産業や商業によりリヨン社会に溶け込んでいきました。
ソーヌ河の右岸に町ができ、市が開かれました。1466年、最初の自由市場により、メディチ家をはじめとするフィレンツェの金融家はそれまでジュネーヴにあった支店をリヨンに移しました。さらに1473年頃には亡命者としてリヨンに来たドイツ人たちはメルシエール通り付近に印刷工房をかまえ、ここから宗教改革の思想が広がっていきました。
15世紀末には国王シャルル8世が宮殿をリヨンにかまえ、フランスで最も人口が多く豊かな街となりました。
1506年にフランスで最初の証券取引所が設立され、商取引のシステムができたことでヨーロッパ各地から商人が集まってきました。
フランソワ1世の肝入りで絹織物がイタリアからもたらされ、リヨンが名だたる絹織物産業の街としてさらに発展していきました。彼は芸術にも造詣が深く、リヨンに何度も滞在しました。フランソワ1世は絹織物産業の発展にも力を入れ、ルネサンスの大きな流れを呼び込みました。
ほかにも作家でもあり医者でもあったフランソワ・ラブレーはホテル・デューで医者として就業しながら『パンタグリュエル』『ガルガンチュア』を書きました。女流詩人であるルイーズ・ラベが自身の邸宅で文学サロンをひらきました。
15世紀以降、ソーヌ川の右岸に町ができ、定期市が開かれた。16世紀初頭にはフランス最初の取引所が誕生し、商取引のシステムができ、全ヨーロッパから商人が集まった。フランソワI世の肝入りで絹がイタリアから導入され、リヨンを世界に名だたる絹織物産業の町とした。またイタリアへの道にあたるため、アルプスを越え芸術がイタリアよりこの地に伝わり、フランス・ルネサンスのさきがけとなった。
大きな発展を遂げたリヨンですが、1529年、前年の小麦価格の高騰をきっかけに「グラルド・ルベイン」という労働者の暴動がおこりました。これらの民衆運動は1世紀近くもつづきました。1539年には印刷業の職人たちによる最初のストライキが勃発しました。
1551年以降、宗教改革によりリヨンにいたプロテスタントたちは迫害から逃れるためジュネーヴへ移っていきました。当時の国王アンリ4世は宗教戦争で混乱していた街を鎮めるために地方長官を任命しました。1600年にはフランソワ1世はマリー・ド・メディシスとの結婚式を旧市街のサン・ジャン大聖堂で行いました。
フランス革命時のリヨン
17世紀に入るとリヨンではベルクール広場の近くのシャリテ病院、市庁舎、オテル・デューといった多数の建物が建設されました。
宰相コルベールは絹織物の手工業を制限し、大規模な工業化を推し進める「グランド・ファブリック」を制定します。
18世紀の半ばには絹織物職人たちによる最初のストライキが発生します。このストライキに対する報復は2000人の銃殺やギロチンにかけられ、ベルクール広場の周りの建物が破壊されました。リヨンの街は「解放市」と呼ばれていました。
フランス革命前には新技術や発明が相次ぎました。1784年ピラトル・ド・ロズィエによる気球による初飛行がブブロトー Broteaux で行われました。1783年にはジュフロワ・タバンによる蒸気船の前身である「ピロスカフ」という船がソーヌ河で初航行がありました。
フランス革命中の1793年リヨンは穏健派のジロンド派に入り、革命政府であった国民公会に反旗をひるがえしました。その後2ヶ月近くの間、降伏まで国民公会が派遣した共和国軍の包囲に耐えました。
19世紀の発展と反乱のリヨン
1800年からナポレオンはリヨンを訪れ、皇帝となった後も何度も訪れていました。彼は絹織物の発展を促し、自分でもたくさんの絹織物を注文しました。
しかし、メーカーが加工費の最低価格の適用を拒否しました。それに起こったカニュ(絹織工)たちが蜂起します。彼らのスローガンは「働きながら生き、戦いながら死ぬ」で、強く戦っていくことを決意していました。カニュの反乱は流血の惨事となり、1831年の最初の反乱から、1870年頃までつづいていきました。
そのころ、交通手段として蒸気が使われるようになり、1829年には最初の蒸気船航路がリヨンと南仏アルルの間を結び、1832年には最初の鉄道がリヨンとサンテティエンヌの間に開通しました。交通が便利になり、さらに経済が発展していきました。
そのころ、交通手段として蒸気が使われるようになり、経済の発展に貢献しました。
19世紀の半ばにはリヨン市にギヨチエール、ヴェーズ、クロワルッスが組み入れられました。それに伴い、新たな機械や化学の新しい産業が発達していきました。
この間にリヨンは優れた発明家や技術者を排出しました。自動車技術者のマリウス・ベルニエ Marius Berliet、ヨーロッパ発の商業用の航空機を製造したヴォワザン兄弟 Les frères Voisin、映画の父といわれた映像技術者のリュミエール兄弟 Auguste et Louis Lumière、ワクチンの開発に貢献したシャルル・メリユー Charlrs Mérieux などです。1910年には街に電気が導入されました。
近代リヨン
20世紀に入ると、街の発展はリヨンの政治家によって大きな影響を受けることになりました。1905年からエドゥアール・エリオ Édouard Herriot がリヨンの市長に選出されます。エドゥアール・エリオはリヨンの市長を兼任しながら、国会議員や大臣、首相を務めた人物です。彼と交流のあった建築家トニー・ガルニエ Tony Garnier により住居、競技場、病院や屠殺場が建設され、リヨンの近代の都市計画が進んでいきました。
リヨンは1942年まではナチスドイツの占領から逃れており、「レジスタンスの首都」となっていきました。ナチスによるフランス占領からの解放へと導く新聞社を次々に生み出しました。レジスタンス闘士の多くがゲシュタポ(秘密国家警察)に捕らえられ拷問を受けました。その中には1943年に、リヨン北部のカリュイール Caluire で捕らえられたレジスタンスの英雄ジャン・ムーラン Jean Moulin もいました。
戦後1960年代に入ると、大規模な都市計画が始まります。パール・デューショッピングセンター、1970年の高速道路A6号線のリヨンまでの延長、1975年サン=テクジュペリ空港の開港、1977年の地下鉄の開通、1981年のTGVの初乗り入れ、1980年代からの技術研究センター「テクノポール」の開設などリヨンは近代化に進んでいきました。
リヨンはさらに現代美術とダンスのビエンナーレ、フェット・デ・リュミエール(光の祭典)という大きなイベントで世界的に知られるようになりました。現代美術館のあるシテ・アンテルナショナル地区の開発、コンフリュアンス地区の開発なども行われました。
1998年にはヴィユー・リヨン、フルヴィエールの丘、サン・ジュスト、プレスキル、クロワルッスの丘という500㎡のエリアがユネスコの世界遺産に登録されました。
現代のリヨン
リヨンは「ヨーロッパの主要都市トップ20」に常に名を連ねています。今後は、使いにくくなっているパール・デュー駅やペラーシュ駅周辺のエリアの大改修が行われています。さらに、ソーヌ河畔やコンフリュアンス地区のさらなる開発が進んでいき、リヨンの中心エリアがプレスキルの南側にも広がっていくことでしょう。
リヨンはこれからもワクワクする未来が広がっている街です。