プレスキル地区の北にあり市庁舎とリヨン美術館に面しているテロー広場は、リヨンの中心の広場です。広場の中心にあるバルトルディの噴水がシンボルとなっており、観光で訪れることも多い場所でもあります。
リヨン中心にあるテロー広場とバルトルディの噴水に関する観光案内や歴史を紹介します。
リヨンのテロー広場の観光案内と歴史
テロー広場周辺のリヨンの中心地ができるまでの歴史とともに、観光スポットを案内します。
16世紀からは要塞としての役目
このテロー広場は16世紀まで、ローヌ河とソーヌ河の間の要塞としての役目を果たしていました。
10メートルの高さの厚い壁と跳ね橋の2つの門、10つの角塔、木製の槍にでできた土塁がおかれ、テロー広場の周辺を守っていました。テラリア・ノーヴァ(Terralia nova)という濠には水が満たされており、その濠がテロー広場の名前の由来となりました。
16世紀に入ると壁は年月を経て崩れてしまい、1578年にはテロー広場には盛り土がほどこされました。1617年には濠は壊され市庁舎の庭となり、現在ではオペラ座が建っています。
オペラ座の東側には1646年に市庁舎の建設がはじまると、テロー広場は行政の中心となっていきました。市庁舎はその後1674年に火事で焼失してから再度再建されました。これが現在の市庁舎 Hôtel de villeです。
しかし、1674年に市庁舎は火事により消失してしまいましたが、その後、ジュール・アルドゥアン=マンサール(Jules Hardouin-Mansart)によって再建されました。
17世紀入ると修道女たちがサン・ピエール修道院を建て、次第に規模を拡張していきました。
18世紀のテロー広場は処刑の場
沼沢地の上につくられた広場は18世紀には公共の広場となりました。かつては断頭台が置かれた処刑広場でもありました。13世紀の宰相リシュリューへの陰謀罪に問われたサンマール公やドゥ・トゥーもここで処刑されました。
その頃、テロー広場のとなりのクロワルッス地区に絹織工たちが住みはじめ、広場は商業の中心にもなっていきました。裕福なブルジョワたちは広場の豪華なカフェで過ごし、貧しい人々は近くの古ぼけた小さな家に住んでいました。
19世紀に噴水像が置かれる
17世紀サン・ピエール修道院の修道女たちが僧院を建立し、徐々に建物は拡大していきました。1803年にリヨン美術館 Musée des beaux-artsとなりました。リヨン美術館の中庭やレストラン、近くのホテルなどにサンピエールの名前がついているのはこの修道院に由来しています。
19世紀には都市計画が立てられ、川岸の再整備や交通路の改善、ソーヌ河へのフイエ橋(Pont de la feuillée)の建設、テロー地区とベルクール地区の連絡路の構築などが行われました。
1887年にバルトルディによって作成された噴水は元々はボルドー市に贈るためにつくられました。
噴水の像はボルドーを流れるガロンヌ川とその支流を象徴しています。中央上で4頭の馬を操っているのがガロンヌ(ガロンヌ川の象徴のこと)で、フランス革命100周年の祝いとして「自由の戦車」になったところが表現されています。バルトルディはニューヨークの自由の女神の作者でもあります。
ところが、ボルドー市はこの受取りを拒否!
当時のリヨン市長だったガイユトン博士が中古価格でこの噴水を買い取りました。それ以降、テロー広場の北側にはバルトルディの噴水 Fontaine Bartholdiが鎮座しています。
1994年にはテロー広場は再建され、白いラインと69枚の黒い花崗岩(御影石)のタイルがアクセントになっており、地面すれすれにイルミネーションで彩られた噴水が吹き出しています。
1995年、テロー広場は歴史的建造物に指定されました。
2016年よりこのバルトルディの噴水は200万ユーロの予算をかけ修復に出され、2017年春に改修工事が終わりました。
テロー広場の北側にはカフェやレストランが並んでおり、季節を問わずオープンテラスの席が並んでいます。天気のいい日にはビールを飲んで楽しんでいる人たちがたくさんいます。
また、夏の間には無料のダンスする場になったり、光の祭典中には美術館やオテル・ド・ヴィルの壁を大きく使ったプロジェクションマッピングが開催されます。